2013年11月4日月曜日

【映画】まどか☆マギカと、オンナノコの本質的な面倒臭さから来るすれ違い

2013年11月2日、『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を鑑賞。妙に長い2時間を終えてからは、ただ放心。テレビシリーズで終わりにしておいてほしかった。製作者は鬼畜すぎる、もはや外道だ。…などなど、色々な感情(主にマイナス感情)が心の中でグルグル巡り、もうまどマギファン辞めようかな…杏子ちゃん(推しキャラ)ファンで有り続けるだけにしようかな…とか色々思ったけど、ようやく消化できてきた気がするので、以下、雑感。

映画を観終わってから、テレビシリーズの後半(=昨年公開の映画後編)を再度鑑賞し、感じたことは、結局、まどかとほむらの「願い」は、ずっとずれたままだったということ。そもそも一番最初に、まどかが「キュゥべえにだまされる前の馬鹿な私を助けてほしい」などという約束をしてしまったことから世界は歪み、間違ってしまったんじゃないかと思うけど、まどかが何故それを願ってしまったかと言えば、魔法少女になる前のその時の自分のまま、平凡な自分のまま、家族や友人や大切な人に囲まれて人生を全うしたかったからだったわけで。その「願い」を、途方もなく大きくて責任のあるものに仕立て上げてしまい、まどかを助けたい、まどかを救いたい、誰よりも笑顔であってほしい、まどかはそうでなければならないんだという途方も無く大きな「願い」に変化させてしまったのは他でもないほむらなわけで。重なっているようで微妙にずれているのは、どちらも、相手のことを考えているようでその実は全く考えていない、独りよがりだからだ。

テレビシリーズの終わりでは、まどかは新たな宇宙の概念となり、その結果魔法少女は魔女に変わることなくその命を全うすることができるようになったものの、その結果はやはりまどかの「独りよがり」な考えのもとにあった。残された人たちのことを考えず、ましてや、「まどか」という存在自体を誰よりも助けたかったはずなのに、その彼女が居ない世界を生きなければならず、残酷にも取り残されてしまうほむらの気持ちなんて、全く考えていない。まどかにとっては、自分はどうにかなってしまったとしても、ほむらを含む他の少女たちが皆幸せになれれば良かったわけだ。しかしほむらは違う。ほむらにとってのまどかは、かけがえのない、たったひとりの友達であって。他の魔法少女なんて、世界なんて、正直にいってしまえばどうでもいい。「こんな世界、ふたりで壊しちゃおうか」と、ほむらがかつて語った一言は、本心だったのかもしれない。まどかさえ居てくれれば良い。まどかさえ笑ってくれれば良い。そのためには自分は、他の誰ともわかりあえなくても、例え恨まれ役になろうとも、そんなことは意にも介さない。

まどかにとってのほむら、ほむらにとってのまどか、お互いに「たいせつなともだち」で有りながら、お互いの想いは最初から最後まで擦れ違っている。その本質が、今回の新編『叛逆の物語』で目を背けられない事実として視聴者に突き付けられている。だから、放心せざるを得ない。「もうやめたげてよお!」と叫びたいのに、叫べない。だって、私たちは知っているから、友達と擦れ違うその気持ちを、かつて、ひょっとしたら今も、嫌というほど味わっているから。

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オンナノコは本質的に面倒臭いのだ。クソがつくほど面倒臭いのだ。自分の好きなものや好きな人をただ好きでいられれば良いのに、他の人はどう思っているんだろう、とか、私は××ちゃんのこと好きだし大切だと思ってるけど、××ちゃんは本当はどうなのかな、私のことうざいとか思っていないかな、とか、気にしなくても良いことを気にしまくって、気にしまくって、気が付いたら鬱々とした気分を抱えていたり、気が付いたら周りにあたり散らしてしまっていたり。特に、思春期のオンナノコはそうなってしまう。何も考えずに楽しんでいられた子ども時代から、少女として、女性として、そして大人となっていく第一歩を歩んでいる思春期。『魔法少女まどか☆マギカ』は、そんな不安定なオンナノコたちを「魔法少女」という形で描いているのだ。ともすればファンタジーもので終わってしまうけれど、そんな生易しいものではない。ドロドロの思春期、不安定で嫉妬深くて面倒臭くて、友達とも家族とも擦れ違ってしまうような辛くて甘酸っぱい時代。それを、「魔法少女の運命」という壮大なテーマに置き換えているだけなのだ、と、私は思う。

新編『叛逆の物語』で、ほむらはまどかと擦れ違い、まどかを概念の座から引きずり降ろし、自身を悪魔という立場に貶めることで決着を付ける。何も知らないまま現実世界に戻されたまどかは、きっといつか気が付くだろう。「この世界は違う、私の願ったものではない」と。ふたりの擦れ違いは終わらない。お互いにお互いを大切に思う気持ちは持っているはずなのに、想えば想うほどずれていく。悲しい性。どちらかが先に大人になって、相手の望んだ世界を認めることができるようになれば、変わるだろうか。そんなことは本当にできるのだろうか。

ほむらとまどかの擦れ違いを傍目に、今回の新編では、もう1組の少女たちの存在がさりげなく、しかし確固とした存在感を以て語られる。さやかと杏子。ふたりの少女は、テレビシリーズでは擦れ違ったまま、さやかは魔女になり、その魔女を杏子が倒すという形で終わりを遂げた。そのふたりが、新編では、かけがえのない親友同士として再会する。ほむらが創りだした異空間の中で遂げられた奇妙な友情でありながら、ほむらとまどかの擦れ違いよりは平和で安定した結末を迎える。「もうあんたに会えないのか」と杏子はさやかに語りかけ、涙を流しながらも、彼女自身、擦れ違いの果てに気が付いた、さやかを想う気持ちに気が付いている。悲しい再会と別れでありながら、さやかと杏子はお互いを大切に想い、認め合う気持ちを抱き、ふたりで笑いあいながら最後の戦いを楽しむ。「ずっと心残りだった」と語るさやか。その「心残り」を、奇妙な形であれ成し遂げることができたことへの達成感。ほむらとまどか、さやかと杏子、2組の友情は全く異なる結論を導き出している。ほむらとまどかが、さやかと杏子のようになるためには、何が必要なのだろうか。

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オンナノコは基本的に、本質的に、とにかく、面倒臭いのだ。その面倒臭さを誰よりも具現化しているのは、「頼りになる先輩」を演じながらも、実は泣き虫で弱くてウジウジしてばかりのマミだけれども、そのマミに対して敵意をむき出しにしてしまうほむらの方が、本当は誰よりも面倒臭いのだ。

『まどか☆マギカ』は、そんなオンナノコのドロドロとした感情を惜しむことなく表現している。そういった意味では、思春期の女の子が和気あいあいと楽しんでいるような『けいおん!』や、『らきすた』といったアニメとは一線を介している。個人的には、5人の女の子がわちゃわちゃして笑いあって時には泣いて、ひとつの目標に対して精いっぱい努力する姿が美しい『ももいろクローバーZ』ではなく、総選挙という形で強制的に順位付けをし、PVの中でも汚い女子校生活を描いたりして、ニコニコ笑っているその裏のドロドロさを見せつけてくる『AKB48』のようなものだとも思う。…それはちょっと飛躍し過ぎか。

ともあれ、私はまどマギがやはり好きだった。私自身が、面倒臭いオンナノコである限り、これからずっと大好きだ。

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