2013年11月28日木曜日

『ホテルローヤル』を読みました。

今更ながら、直木賞受賞の『ホテルローヤル』を読了。


なかなか心に残った小説だったので、感じたことをまとめてみる。



わたしは、廃墟や史跡がとても好きなのだけれど、「そこにかつていた(であろう)ひとの、息遣いを感じられること」がその理由としては挙げられるのだと思う。



廃墟からはじまるホテルローヤル。そこを舞台としたそれぞれの逸話は、断片的なように見えて、最終的にはひとつの線として結び付けられる。

全ての話の中に、ひとりひとりの息吹が感じられる。目の前に広がっていた廃墟は、まるでタイムマシンで遡るかのように、色鮮やかにその姿を変えてゆく。

全体的に切なくて、物悲しくて、苦しい話ばかりなのに、読み終わった後にどこかスッキリとするのは、時間軸の遡りに助けられているからだろう。



世の中にはいろいろな人がいて、人の分だけ価値観がある。

恋愛も、友情も。恋人関係も、夫婦関係も、家族関係も、どれひとつとして同じものは無い。

それでも、愛を体現する方法は、普遍的だ。それぞれのバラバラした価値観を隠して、どうあがいても一致しないモノを隠して、からだとからだを重ねる。

ラブホテルはそういった人々の物悲しい摂理に、寄り添う。まるで御伽噺のように。

そこに集うひとたちは、皆、ひとりの人間として、ではなく、ただの動物として。目の前の煩わしさから目を背けて、夢を見にやってくる。



廃墟となったラブホテルは、もはや本来の機能を果たさないが、それでもお伽噺を提供し続けている。

訪れる人は誰も、「そこにかつていた(であろう)ひとの」姿形などわからない。

「そこにかつていた(であろう)ひとの息遣いを感じ」、空想し、夢を見るだけだ。



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この小説を読んで感じたことは、もうひとつ。あちこちに出現する「匂い」というキーワードのリアルさ。

お伽噺のラブホテルを追及しながらも、「匂い」が生々しく表現されることによって、夢は急降下し現実へと変化する。



匂い、というのは、個人的に最も現実を知らしめる五感だと思う。

目で見たものや耳で聞いたものも勿論そうだけれども、匂いはもっと残酷だ。わざわざ嗅ごうとなくても、鼻をつくことがある。

キンと冷える冬の朝に、コーヒーの匂いを嗅ぐと、私は遠い外国の地で初めて入ったカフェのことを思い出す。

日差しの暖かい昼間に、お線香の匂いを嗅げば、私は祖母が亡くなった日のことを思い出す。

ある匂いを発端として、記憶の奥底から蘇ってくるものがある。だから、匂いはとても残酷だ。





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新婚時代を思い出しながら、ラブホテルの浴槽をローズの香りで一杯にする妻。

その妻にかける夫の何気ない一言。『そんな匂い付けて帰ったら、あいつらに気がつかれないかな』

妻の思考は、つ、と、止まる。かつて夫には、そんな【匂い】を気にする場面があったのだろうか、と、漠然とした不安を覚える。

(バブルバス)



息子の犯した罪を知り、その現実を受け止めることができずに、勤め先のラブホテルでただがむしゃらに働いた母。

夫の待つ家へと帰ろうとするも、足が動かない。ひとりになりたい、と、60年間生きてきて初めて抱いた感情を持て余す。

真っ暗な山道の中で、腰を降ろす。星を見ていると、涙が溢れてくる。その涙を、すいた匂いのする軍手で、拭う。

(星を見ていた)



妻と子供を捨て、20も年下の愛人と共に、ラブホテル建設という夢を叶えることを選んだ男。

男の子供を身籠った愛人に贈るのは、時期外れの高級みかん。みかんを眺めながら愛人はその匂いを体一杯に吸い込む。

「ホテルローヤル」の名付け親となった男は、みかんを握ったまま涙を零す愛人を抱きしめる。

(ギフト)



***



人間として、ではなく、ただの個体として体を寄せ合った人々は、匂いによってふと現実に帰る。

『ホテルローヤル』に描かれる逸話、そこに共通して存在する物悲しさが、そこにはある。



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まとまらなくなってしまったので、一先ず終わり。

思いついたらまた書きたい。

2013年11月4日月曜日

【映画】まどか☆マギカと、オンナノコの本質的な面倒臭さから来るすれ違い

2013年11月2日、『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を鑑賞。妙に長い2時間を終えてからは、ただ放心。テレビシリーズで終わりにしておいてほしかった。製作者は鬼畜すぎる、もはや外道だ。…などなど、色々な感情(主にマイナス感情)が心の中でグルグル巡り、もうまどマギファン辞めようかな…杏子ちゃん(推しキャラ)ファンで有り続けるだけにしようかな…とか色々思ったけど、ようやく消化できてきた気がするので、以下、雑感。

映画を観終わってから、テレビシリーズの後半(=昨年公開の映画後編)を再度鑑賞し、感じたことは、結局、まどかとほむらの「願い」は、ずっとずれたままだったということ。そもそも一番最初に、まどかが「キュゥべえにだまされる前の馬鹿な私を助けてほしい」などという約束をしてしまったことから世界は歪み、間違ってしまったんじゃないかと思うけど、まどかが何故それを願ってしまったかと言えば、魔法少女になる前のその時の自分のまま、平凡な自分のまま、家族や友人や大切な人に囲まれて人生を全うしたかったからだったわけで。その「願い」を、途方もなく大きくて責任のあるものに仕立て上げてしまい、まどかを助けたい、まどかを救いたい、誰よりも笑顔であってほしい、まどかはそうでなければならないんだという途方も無く大きな「願い」に変化させてしまったのは他でもないほむらなわけで。重なっているようで微妙にずれているのは、どちらも、相手のことを考えているようでその実は全く考えていない、独りよがりだからだ。

テレビシリーズの終わりでは、まどかは新たな宇宙の概念となり、その結果魔法少女は魔女に変わることなくその命を全うすることができるようになったものの、その結果はやはりまどかの「独りよがり」な考えのもとにあった。残された人たちのことを考えず、ましてや、「まどか」という存在自体を誰よりも助けたかったはずなのに、その彼女が居ない世界を生きなければならず、残酷にも取り残されてしまうほむらの気持ちなんて、全く考えていない。まどかにとっては、自分はどうにかなってしまったとしても、ほむらを含む他の少女たちが皆幸せになれれば良かったわけだ。しかしほむらは違う。ほむらにとってのまどかは、かけがえのない、たったひとりの友達であって。他の魔法少女なんて、世界なんて、正直にいってしまえばどうでもいい。「こんな世界、ふたりで壊しちゃおうか」と、ほむらがかつて語った一言は、本心だったのかもしれない。まどかさえ居てくれれば良い。まどかさえ笑ってくれれば良い。そのためには自分は、他の誰ともわかりあえなくても、例え恨まれ役になろうとも、そんなことは意にも介さない。

まどかにとってのほむら、ほむらにとってのまどか、お互いに「たいせつなともだち」で有りながら、お互いの想いは最初から最後まで擦れ違っている。その本質が、今回の新編『叛逆の物語』で目を背けられない事実として視聴者に突き付けられている。だから、放心せざるを得ない。「もうやめたげてよお!」と叫びたいのに、叫べない。だって、私たちは知っているから、友達と擦れ違うその気持ちを、かつて、ひょっとしたら今も、嫌というほど味わっているから。

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オンナノコは本質的に面倒臭いのだ。クソがつくほど面倒臭いのだ。自分の好きなものや好きな人をただ好きでいられれば良いのに、他の人はどう思っているんだろう、とか、私は××ちゃんのこと好きだし大切だと思ってるけど、××ちゃんは本当はどうなのかな、私のことうざいとか思っていないかな、とか、気にしなくても良いことを気にしまくって、気にしまくって、気が付いたら鬱々とした気分を抱えていたり、気が付いたら周りにあたり散らしてしまっていたり。特に、思春期のオンナノコはそうなってしまう。何も考えずに楽しんでいられた子ども時代から、少女として、女性として、そして大人となっていく第一歩を歩んでいる思春期。『魔法少女まどか☆マギカ』は、そんな不安定なオンナノコたちを「魔法少女」という形で描いているのだ。ともすればファンタジーもので終わってしまうけれど、そんな生易しいものではない。ドロドロの思春期、不安定で嫉妬深くて面倒臭くて、友達とも家族とも擦れ違ってしまうような辛くて甘酸っぱい時代。それを、「魔法少女の運命」という壮大なテーマに置き換えているだけなのだ、と、私は思う。

新編『叛逆の物語』で、ほむらはまどかと擦れ違い、まどかを概念の座から引きずり降ろし、自身を悪魔という立場に貶めることで決着を付ける。何も知らないまま現実世界に戻されたまどかは、きっといつか気が付くだろう。「この世界は違う、私の願ったものではない」と。ふたりの擦れ違いは終わらない。お互いにお互いを大切に思う気持ちは持っているはずなのに、想えば想うほどずれていく。悲しい性。どちらかが先に大人になって、相手の望んだ世界を認めることができるようになれば、変わるだろうか。そんなことは本当にできるのだろうか。

ほむらとまどかの擦れ違いを傍目に、今回の新編では、もう1組の少女たちの存在がさりげなく、しかし確固とした存在感を以て語られる。さやかと杏子。ふたりの少女は、テレビシリーズでは擦れ違ったまま、さやかは魔女になり、その魔女を杏子が倒すという形で終わりを遂げた。そのふたりが、新編では、かけがえのない親友同士として再会する。ほむらが創りだした異空間の中で遂げられた奇妙な友情でありながら、ほむらとまどかの擦れ違いよりは平和で安定した結末を迎える。「もうあんたに会えないのか」と杏子はさやかに語りかけ、涙を流しながらも、彼女自身、擦れ違いの果てに気が付いた、さやかを想う気持ちに気が付いている。悲しい再会と別れでありながら、さやかと杏子はお互いを大切に想い、認め合う気持ちを抱き、ふたりで笑いあいながら最後の戦いを楽しむ。「ずっと心残りだった」と語るさやか。その「心残り」を、奇妙な形であれ成し遂げることができたことへの達成感。ほむらとまどか、さやかと杏子、2組の友情は全く異なる結論を導き出している。ほむらとまどかが、さやかと杏子のようになるためには、何が必要なのだろうか。

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オンナノコは基本的に、本質的に、とにかく、面倒臭いのだ。その面倒臭さを誰よりも具現化しているのは、「頼りになる先輩」を演じながらも、実は泣き虫で弱くてウジウジしてばかりのマミだけれども、そのマミに対して敵意をむき出しにしてしまうほむらの方が、本当は誰よりも面倒臭いのだ。

『まどか☆マギカ』は、そんなオンナノコのドロドロとした感情を惜しむことなく表現している。そういった意味では、思春期の女の子が和気あいあいと楽しんでいるような『けいおん!』や、『らきすた』といったアニメとは一線を介している。個人的には、5人の女の子がわちゃわちゃして笑いあって時には泣いて、ひとつの目標に対して精いっぱい努力する姿が美しい『ももいろクローバーZ』ではなく、総選挙という形で強制的に順位付けをし、PVの中でも汚い女子校生活を描いたりして、ニコニコ笑っているその裏のドロドロさを見せつけてくる『AKB48』のようなものだとも思う。…それはちょっと飛躍し過ぎか。

ともあれ、私はまどマギがやはり好きだった。私自身が、面倒臭いオンナノコである限り、これからずっと大好きだ。

【映画】風立ちぬを観て感じた、美しい矛盾の行方

http://kazetachinu.jp/

以下、たいしたものではないですがつらつらと感想などを。
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私は言わずもがな「幕末」と呼ばれる江戸時代末期がとても好きなのですが、それ以外にも、「ベルサイユのばら」「レ・ミゼラブル」の中に描かれるようなフランス革命の激動期も好きなのです。その理由は何だろう、と、ずっと考えていたのですが、この映画を観てひとつの答えが出たような気がしました。「美しい飛行機を創りたい」という夢を追う主人公、堀越二郎と、同じ夢を追い続ける若者たち。「俺たちの創ったものは戦争に使われるだけ」とわかっっているのに、夢を追い続けることをやめない若者たち。明るいはずの「夢」が暗く、重く、悲しいものに使われるという矛盾。その時代に生きている人たちにとっては、そんなに深い考えはないのかもしれないけれど、私はその「矛盾」にとても感銘を受けているんだと思います。

幕末に生きた志士たちも、フランス革命の時代に露と消えた革命家たちも、皆、「夢」を追っていた。自らの「信念」を抱いて生きていた。もし平和な時代に生まれたのであれば、その「夢」も「信念」もは美しいままだったのかもしれないのに、時代の流れに翻弄されて、逆らえず、気がつけば「官軍」と「賊軍」となり、気がつけば「処刑される側」となってしまった。その切なさが、私はたまらなく好きなんだなあ、と。

『風立ちぬ』の中にもずっとその矛盾があります。暗く、重く、悲しい戦争の時代に向かっているはずなのに、若者たちは底抜けに明るくて、ただがむしゃらに「夢」を追い続けて、ただ純粋に恋愛をして、真っ直ぐに生きている。悲しいテーマのはずなのに全編を通して明るくて、お涙頂戴の要素なんてどこにもありません。それなのに私は、涙が止まりませんでした。2時間5分の上映時間、ずっと泣いていました。

私たちは生きなければなりません。どんなにつらいことがあっても、しっかりと前を向いて。後ろを振り向いてばかりでは、いけない。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

本当にすばらしい作品です。