2012年11月11日日曜日

【日記】人と人の間で人間は生まれそして生きていく

 最近、「人間」について考える機会が多いと思う。わざわざ考えようと思うのではなく、自然と考えてしまうというか、考えなければならない場が生まれるというか、そんな感じではあるけれど。

 人間は基本的に自分勝手だ。勿論そうじゃない人もいる。でも基本的にその人の価値観や言動は、「その人」という存在が有ってから生まれるものであって、生まれながらの隣人愛を基に動いている人なんて居ない。その本質的な自分勝手さを、周囲に隠して生きるか、自然と隠して生きられるのか、あるいは敢えて隠さないのか、隠せないのか…そういった点は人それぞれ違う。だから、「あの人は自分勝手だ」「あの人は違う、とても思いやりのある人だ」という評価は分かれる。でも、人間の根本は自分勝手だ。

 私も例にも漏れず、自分勝手だ。自分の価値観を大事にしたい。自分と気の合う人と付き合いつつ、自然体で過ごしていたい。そう思っている。「可能であれば」という但し書き付きではあるけれど。

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 社会は理不尽だ。
 
 「自分勝手な人になってはいけませんよ」と、誰もが教育現場で(日本の公教育を受けた人であれば)と学んでいるはずなのに、いざ蓋を開けて大人になって見ると、それを忘れている人があまりにも多いのではないか。お前は女だ。しかも若い女だ。学歴もあるようだ。声が低くて癪に障る。話し方が堂々としていて鼻につく。「だから?」という理由で、些細なことを揚げ足取って、負の感情をぶつけられることが何て多いのだろう。自分が気に食わないから、自分が嫌だから、自分が苛苛しているから・・・そんな理不尽な理由に基づく言動がまかり通っている。満員電車の中で、周りの人間全てが親の敵なのではないかと思われるほどに、不機嫌な顔をして乗っている大人たちは、一体何が気に食わないのだろう。

 大人になればなるほど、成長が止まるどころか、逆行していく。我儘し放題の、自分勝手な子どもに戻っていく。自分と他人の境界性がなかった赤ん坊に戻っていく。子どもたちはそんな大人を見て、その本質を見抜いてこう言う。「大人は嘘つきだ」と。自分勝手な人になってはならないと言いながら、誰よりも自分勝手に生きる大人たちを、彼ら彼女らは知っている。

 私はそんな大人になりたくない。
 絶対に、なりたくない。

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 昨日は所属していたゼミのOB会だった。そこでもまた、私は人間について深く考えることができた。先輩や同期といったOBの輪だけではなく、世代を超えた後輩たちが同じ場に居るあの空間。異質な人間たちの集まり。学生という立場ではなく、社会人として、私はその場に居た。ともすれば自分勝手さを押し出してしまうような、そんな大人のひとりとして。

 私はあの場で何をできたのだろうか。正直に言ってしまえばわからない。何もできなかったのかもしれない。嫌な先輩だな、と、思われてしまったかもしれない。たった30人、されど30人。人それぞれ考え方は違うし、とらえ方は違う。だからそう思われてしまっても構わない。

 それでも私は、あの場に居た後輩たちに、「私はけして自分勝手な人間ではない」ということが伝わっていたら良いのだ、と思う。そもそもその考え方自体が、エゴにまみれた自分本位な願いなのかもしれない。だからここでも、「可能な限り」という但し書きは付けたいと思う。私はいつだって真面目だ。真剣だ。馬鹿正直だ。後輩たちが私に何かを求めていたとしたら、そのニーズに対する自分なりの応えを与えたい。後輩たちが私に何も求めていなかったとしても、私と会うことで何かを感じて、少しでも彼ら彼女らの人生の得になっていれば良いと思う。私は少なくとも、昨日のあの場では、自分勝手ではなかった。相手の立場に自分という人間を置きながら、話をし、行動して、表情を作り上げた。楽ではなかった、と思う。疲弊はした。それでも、とてもとてもやりがいを感じた。

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 人間と関わる仕事をしたい、と、感じた。

 昨日のOB会のあとで、ひとりの後輩がこんなメッセージをくれた。「curiosityを持って行動する」ということ。ああ、なるほど、と、私の頭の中でひとつの靄が晴れたような気分になった。そうだ、私は、人間が嫌いだけれど、だからこそ好きになりたくて、curiosity(好奇心)を持って接して居るんだ、と。
私はけして自分勝手にはなりたくない。常に人間のことを考えて生きていたい。人と人の間に立つ者として、常に色々なところにアンテナを張り巡らせて生きていたい。それは永久不滅のcuriosityを持つ、ということではないだろうか。

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